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トルコのもう一つの顔/小島剛一

 貧乏学生の「ほんわか紀行文」風の書き出しは目くらましだ。トルコ政府による少数民族迫害の現実を描いた本である。監視者や警察官との間で虚々実々の駆け引きをしながら、自らのフィールドワーカーとしての立場を守ろうとする様子は、スパイ小説じみている。

 著者は言語学者としてトルコの少数民族の言語を研究している。その研究は現地の人々と話をしながらその言語を知っていくというフィールドワークであるが、現地の言葉を録音することや少数民族の処遇をオープンにすることは、「トルコに少数民族は存在しない」ことを公式見解とするトルコ政府を刺激し、著者本人はもとより現地の協力者を危険に晒すリスクがあった。ゆえに本当に高リスクな地域・人については触れていないか明示していないという。
 実際に警察に拘留される局面も描かれている。その際には、どこからか聞こえる少数民族の歌に合わせて歌ったら食べ物が天井から降りてくるという、歴史物のドラマのような場面もある。

 ただし、著者によれば、ひとくくりに「クルディスタン独立運動」のようなまとめ方をしても実態はつかめないという。ザザ語をクルド語の方言とする誤解の原因の一つ、として著者が書いている一文がその辺りの事情を端的に説明している。

 「クルド」あるいは「クルディスタン」という言葉は、本来特定の言語の話し手とその分布地域を指す言語学的な呼称として成立したものではなく、漠然と広大な山岳地帯とその住民を指す地理上の総称であったらしい。クルディスタンが統一国家として存在したことはないし、「統一クルド語を公用語とした国」もないから、その中にさらに少数民族が交じっていても、歴史の表面に現れなかったのだ。かつて日本領時代に「高砂族」とひとまとめに呼ばれた台湾の先住民族が言語としても民族としても複数の存在であるのと事情が似ている。

 同じクルド人でも「トルコ国内のクルド人」と「イラクやイラン、シリアに住むクルド人」とでは言葉が通じないというし、トルコ国内でも各地域によって方言がある。クルド語の方言とは分類できないような全く別系統の言語を話す人々も存在するという。
 さらにややこしいのは、トルコにおける少数民族差別は民族、言語の違いだけに由来するのではなく、宗派の違いも関わっているということだ。

 そうした実情を、学者にありがちな総論的・俯瞰的なスタンスで書くのではなく、緊迫感のある実体験として伝えているのが本書の魅力だ。はっきりいえば、トルコやクルドへの関心がなくても面白い。
 本書に描かれるのは1970年代から80年代の様子である。クルド人の存在が現在ほどには知られていなかった頃で、ヒッチハイカーが親日トルコ人に囲まれてチャイをすするような記述がトルコの印象を決めていた時代にあって「トルコのもう一つの顔」というタイトルは、いささかの誇張もない、そのものズバリのタイトルだ。

 こうなってくると、21世紀の現在でも本書の認識でよいの? という疑問が生じるわけだが、最近になって著者は20年ぶりの続編(『漂流するトルコ―続「トルコのもう一つの顔」』)を書いたらしい。未読なのだが、これも楽しみ。

おススメ度:★★★★★
(内容ではなく文章の力で読ませる)
続編期待度:★★★★★
(繰り返しますが私は続編は未読)

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