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チモシェンコ自伝―想い出すままに―

 ステパン・P・チモシェンコ(現在ではティモシェンコという表記が一般的)はロシア革命を機にアメリカへと渡った白系ロシア人で、材料工学や弾性論の教科書を書いたことで知られる。彼の書いた教科書は多くの言語に翻訳され、半世紀以上たった現在でも、日本の大学の工学部で使われることがあるという。そのティモシェンコが1960年代に、80歳を過ぎてから書いた自伝。

 ティモシェンコの父親は1847年にウクライナの農奴の家に生まれたが、姉が地主の家に嫁いだため、地主の息子と一緒に教育を受けた。そして測量士となった。1861年のアレクサンドル2世による農奴解放によって、解放農奴に土地を分譲するために測量士の仕事は多かったようだ。1876年に結婚した後は、各地を飛び回る測量士の仕事を辞めて農業を始めたというが(土地は借りた)、毎年農繁期が終わると130マイル離れたキエフへ旅行したという話からも成功していたことが伺える。
 1878年にティモシェンコ誕生。母親は当時にしては珍しく女子中学校で中等教育を終えた人で、彼女が最初の家庭教師になった。その後、何人かの家庭教師を経て、20マイル離れたところにある実科学校に通うことになった。卒業後、1896年9月から、首都ペテルブルクにある交通運輸専門学校での生活が始まった。

 ティモシェンコの前半生は、ロシアにおける産業革命、工業化の進展と重なる。シベリア鉄道の建設などが進められ、交通運輸専門学校は運輸省の管轄下にあった。
 それと同時に、この時期はツァーリズムの末期であり、革命への機運が高まりつつある時期でもあった。
「私が一年生の1897年の春「ヴェトローヴァ事件」が起きた。ヴェトローヴァという名前の女子学生が投獄され、憲兵将校の暴行を受けたといわれた。かの女は暴行を許すことができなくて灯油をかぶり独房で焼身自殺した。この話の真偽のほどは知らないが、ペテルブルクの全学生を憤激させるには十分だった。カザン大会堂まで一団となって行進し、ヴェトローヴァのための鎮魂ミサを誇示的におこなうことが決められた。」
 この事件では逮捕者が出て学生たちが抗議をしたりと盛り上がったが、その盛り上がりは長続きしなかったという。

「1904年の夏には日本との戦争がおこなわれていた。大部分のロシア青年と同じく私たちは敗北を望んでおり、日本軍の勝利を喜んだ。下宿で出会ったスイスの青年たちもロシアのツァーリズムに反対で、「クロキ万歳!」と叫んだ。当時ツァーリズムは西欧できらわれていた。」
 ちなみにクロキとは、満州第一軍司令官の黒木為楨のこと。
 日露戦争はロシアの知識人層にとっては、やはり「対岸の火事」のようなものだったのだろう。ティモシェンコは日露戦争の戦況が思わしくないことに触れつつも、それはあくまでも背景説明でしかない。数年前には1年間の兵役を務めたにもかかわらず。この時期は自己のキャリアのほうが関心事だった。当たり前なのだろうが。
 28歳でキエフ工科大学教授の職を得たティモシェンコであったが、入学割り当て制限に違反して多くのユダヤ人を入学させた廉で解雇され、ペテルブルクに戻った。

 第一次世界大戦が始まると、帝政ロシア最後の愛国心の盛り上がりが見られたという。
「私たちは新学年が始まる大分まえにペテルブルクに舞い戻った。夏にしては街道の交通は例のない混み方だった。兵士たちが溢れ、対日戦争中には見られなかったような愛国主義の示威が数多くおこなわれた。公園、劇場、レストランのオーケストラは始終国歌を演奏していた。冬宮のまえではおびただしい人びとの群がツァー万歳を唱えていた。私が記憶するかぎりペテルブルクではこんなデモは一度も見たことはなかった。」

 しかしそれも束の間。ロシア革命で帝政は終焉する。
 最終的にはボルシェヴィキ(レーニン)が権力を掌握するのだが、それまでには紆余曲折があった。キエフ周辺も最初はボルシェヴィキの支配下に入り、ティモシェンコは身を隠した。その後、ポーランド軍などの支援を受けた「義勇軍」(当事者の自称。ボルシェヴィキからは「白軍」とか「自衛軍」などと呼ばれた。ティモシェンコは「義勇軍」と呼び、西側諸国がそう呼ばないことに苛立ちを見せる)が盛り返すがそれも一時的で、敗色を察したティモシェンコはユーゴスラビアに脱出した。
 ティモシェンコはボルシェヴィキに批判的なのだが、それを主題にしない。学会などで会ったロシア人に帰国を促されても帰国することはなく、その後スターリン時代が待っていようとは、などとまとめる。家族、親戚、知人がソビエト国内に残ったこともあってか、ソビエトを直接非難する文面は少なく、むしろ西側諸国、とりわけアメリカを非難することで間接的にソビエトを糾弾するのが彼のやり方のようだ。
 第二次世界大戦後、視察のために訪れたドイツでかつての教え子がガイド役を務めたときの記述。
「私たちが教会を見学している間、また電車に乗って帰る間、かれがロシア語を喋るのを避けていることに気づいた。あとで想い出させてくれたのだが、アメリカ人は平和の条件によって戦争終結時にドイツ領土にいるすべてのロシア人を共産側に引き渡す義務を負っていた。したがって平和が回復されて三年もたつのに、ここではロシア語を喋ることが危険であった。連合軍が管理する地域においても共産側のスパイがロシア人を追跡し、かれらをロシアに誘拐してその運命を定めていた。このような連合国のスターリンとの協力は、私にとってはまったく理解に苦しむところだった。」

 ティモシェンコはロシア・ソ連については言及したがらないが、他の西欧諸国を比較するのは好きだった。結論から言うと、ドイツ好き。
 ロシアからの脱出行の途中での記述。
「二年間に及ぶ旅の間に、私は三種類の外国による占領を目撃した。キエフではドイツ、ロストフとイェリカテリナダルでは英国、セヴァストーポリではフランス。この三国の占領の性格は非常に違っていた。ドイツ軍は住民に友好的で若干の法と秩序を打ちたてる努力さえ払った。英国軍は中立を守った。部隊は隔離され住民とはまったく接触しなかった。フランス軍は、自己を富ますために占領期間を利用できると考えていた。当時セヴァストーポリには少なからぬ数の避難民が集まっていて、家を出るとき急いで携えてきた数少ない所持品を生きんがために一つまた一つと売らなければならなかった。フランス人はこれらの所持品を買い上げることを商売にしていた。高価な毛皮のコートや毛皮の帽子を身につけて目抜き通りを散歩するフランス人たちを私は目撃した。手っ取り早い儲けを得るにはぴったりの時代だった。セヴァストーポリを出立するにはフランス占領当局の許可を必要とした。コンスタンチノープルゆき汽船にだれが乗船できるかを決定するのも、この同じ占領当局者だった。」
 第二次世界大戦後にヨーロッパ各地を視察した際の記述。
「戦時中ローマ近くのかれの家に数人のドイツ将校が現れ、宿泊と必要な家具および食器を要請した。かれらは受け取った品目すべてのリストをつくり、辞するときリストにあるすべての品物を返した。占領地帯でのドイツ軍の正しい振るまいについての似たような話は前にも聞いたことがあった。
 あるベルギーの将校から戦時中、自分の小さな町が四ヵ国の軍隊によって順番に占領されたという話を聞いたことを覚えている。まずドイツ軍がやってきた。かれらは模範的な秩序を維持し、現地住民にたいし非の打ちどころない態度で接した。婦人が電車に乗ると、ドイツの将校は必ず起立して席をゆずった、という。戦争末期その町はまずカナダ軍に、ついでイギリス軍に占拠された。かれらはとくに礼儀正しかったわけではないが、規律は守られ、住民はとくに不平をこぼさなかった。アメリカ軍が入ってくると情勢は大きく変わった。アメリカの兵士は組織的にあらゆる家に押し入り、居住者からすべての宝石を奪った。アメリカ兵のおこなった強奪については、デュッセルドルフからほど遠くないところに住んでいた私の弟子の一人からも聞いたことがある。かれらが町を占領したとき、名目上検索ということでかれの家に兵士がやってきた。かれは宝石はもっていなかったが、小さな鍵のかかった箱を見つけられた。私の弟子が鍵を探している間に兵士は銃剣でそれをこじあけ、とりわけ貴重なものが入っていないので立ち去った。」

 ロシアを脱出した後のティモシェンコはザグレブ工科大学に職を得、その後誘われて渡米し、フィラデルフィアのウェスチングハウス社の研究員となった後、ミシガン大学(デトロイト)、スタンフォード大学(カリフォルニア)と移った。アメリカに帰化もしたのだが、アメリカ社会、アメリカ文化に対しては批判的なことばかり書いている。まあそれは、批判を許されるアメリカを暗に賛美しているのかもしれない。
 ただし、本業である教育分野に関しては憂いているのだろう。自らが交通運輸専門学校に進学する際の激烈な競争試験を振り返って、
「のちにアメリカの大学で私は教授として、適切な数学教育に欠ける学生たちに遭遇した。これが講義の水準にどんなに影響することか私には分かった。学生たちの習得の程度まで水準を下げて合わせなければならなかった。工学にたいする学生の態度は疑いなく不十分な数学習得のために大きな影響を受けていた。大ていの場合アメリカの学生は何らかの種類の定式を推論すること、もしくはこのような推論の基礎をなす仮説にたいしては興味を示さなかった。アメリカの学生が望むことといったら最終結果――実際問題解決のため考えないで機械的に適用できる定式――だけである。私の考えだが、合衆国における工学の発達の低水準の主な理由の一つは、今世紀初頭のアメリカ中等教育における数学教育の不十分さにある。」
 また、28歳でキエフ工科大学の教授に抜擢されたことを振り返る際には、アメリカのような年功序列のやり方では、教授になった時にはもう熱意が失われているとやり玉に挙げる。
 
 さて、私の関心に沿って抜粋してきたが、本書の多くは工学教育に関する内容だ。数学や物理学の原理的な内容を、いかにしてリアルな工学教育に落とし込むかがテイモシェンコの課題であって、それに成功したことが述べられている。クラインとの絡みだとか、弟子であるヤングとの共同作業だとか。そっちの分野に関心の強い人にはもっと楽しめると思う。

おススメ度:★★★
(工学教育史とかに関心があれば★5つです)
数学物理度:★
(数式や専門的な内容はあまりないので私でも読めた)

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