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津軽三味線ひとり旅/高橋竹山

 津軽三味線の独奏というジャンルを確立した高橋竹山(初代)は盲目で、旅芸人から身を起こした。その竹山の語りをまとめた本。
 今回は三陸の津波について語られた部分を紹介する。

 あれは昭和八年の旧の二月だね。旧正月おわってからだ。久慈から野田、普代をかけて宮古、釜石のあたりまで海岸沿いにやっていく計画だったんだな。野田をやって玉川という村の宿にみんなで泊った。玉川というところはランプつけて、当時はまだ電気ねえんだ、そこで唄会やった。
 その晩、沖は凪で風は一つもねえ。いい凪だな、ってしゃべっていた。一寝したら地震だ。いや、なもかもたいへんな大地震だ。おら青くなってとび起きて柱さつかまった。地震で戸も開かない。そこでみんなも起きた。おらは階下に寝ていたし、夫婦ものは二階に寝ていたんだ。
 あれほどの地震だから、下におりて一階に寝ればいいのに、また二階にあがって、帯といでかがあと二人であづましく(気持ちよく)寝てらんだべ。
 度胸あるもんだからほら。「あとで揺り返しきてもまいねし、みな下さ寝ろじゃ」って、おらいったんだが、「なにこったらだ地震、なもおっかなぐねじゃ」。こんだべ。
 おら度胸ねえもんだから、心配で、オーバー着て三味線ば箱さいれて背負って、長くつはいで起きていた。宿屋の人が、こんな強い地震のあとは津波が来るかもしれないな、このごろはないが子供の時津波で親が流されて死んだ、なんて話おしえるんだ。
「もし津波来たら、どこさ逃げればいいべ」
「ここの上の煙草屋へいけば大丈夫だ」
 その宿屋は海辺だが、その裏が山で、山の上に道路があって、そこに煙草屋があったんだ。
「村はずれまでいってから、山へのぼってたんでは、とてもまにあわねえべ」
「ここの裏から、山の竹やぶをこいで、のぼっていけばいい、この上が煙草屋だから」
 そのうちに三十分もしたら、なんだかウーンウーン、っておかしい音がしてきた。宿屋のおやじが二階に走りあがって見にいった。そしたら沖のほうが雪の山に見えたって。
 さあ来た、逃げろ、って叫んだどごで、おらあと先もなくワラワラとぶっ走って逃げた。なも見えるもんでねえが、教えられた通り、竹やぶの中を竹につかまりつかまりしてのぼった。やっと煙草屋にたどりついた。「よく来たな、芸人さん、ここにいれば大丈夫だ。ここまではなんぼしても、水は来ないべ」
 煙草屋のガラスが水の音でブーンブーンって鳴ってゆれる。外は雷と風と一緒に来たような音だ。その音でガラスが鳴ってるんだ。
 さあ半鐘はガンガンなる。稲妻光るに霧かかる。話もなにもきこえない。ズーン、ドーン、ガラガラ、いや、なもかも。
 津波は五分か十分のところだ。水がスーッとひければ海はまた凪で、なもかも音一つもあるもんでねえ。泊っていた宿は家の前に大きな岩があったから、それにひっかかって流されなかった。玉川というところは、海辺一帯に岩があったから、あまりメチャメチャにやられなかったが、ここに来る途中にやってきた野田という村の劇場は、みんなもっていかれて、あとかたもなかった。そこら一帯まるで、田んぼのようだった。
 もう商売どころでなくなった。久慈まで戻ると、途中死んだ人が何百人もいて、おら淋しくて、久慈から八戸さいく汽車もとまって動かねえ。鉄道も流されてしまったんだ。

 1933年3月3日の午前2時半に発生した昭和三陸地震について語ったものだ。死者・行方不明者合わせて約3000人という被害だが、宿屋の主人が語っている1896年の明治三陸地震の記憶があったからこそ、未明の津波に対応できたのだろう。
 三陸地方は、たびたび津波に見舞われた歴史があり、住民の津波への意識も高い。それにもかかわらず、今回、多くの被害者がもたらされたということには、暗い気持ちになる。
 なお、さっきNHKが「明治以来最大の被害をもたらした」と言っていたが、明治三陸地震は死者だけで2万2000人近いので、あまり適当ではないように思える。

 本書は、津波の記録ということではなく面白い本なので、別途改めて紹介したい。

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