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鈴木貫太郎自伝

 二・二六事件で「君側の奸」として襲撃されて瀕死の重傷を負い(当時は侍従長)、「終戦時の内閣総理大臣」としてポツダム宣言を受諾した鈴木貫太郎の自伝。

 終戦に至る過程については、やはり当事者の語る生々しさがある。
 1945年8月9日深夜の御前会議において、議事進行役である鈴木首相自らが聖断を仰ぎ、これによってポツダム宣言を受諾することが決まった。ただし、「国体護持」が可能かについて確認を求めることとなった。これに対する連合国の回答には「日本の究極の政治の形態は日本国民の自由に表現せられたる意志に基づいて定められるべき」とあった。
 陸軍大臣、(陸軍)参謀総長、(海軍)軍令部総長の3者は、これでは国体護持がなされるか不明瞭であるから、「国家百年のために玉砕戦法に出て死中に活を求めよとの意見」であり、8月14日の御前会議でその旨を述べた。ちなみに鈴木首相、東郷茂徳外相、平沼騏一郎枢密院議長の3者は一貫して「ポツダム宣言受諾」に賛成していた。
 ここで、8月9日に続いて「聖断」が下された(実質的には9日の意向を再確認したような内容)。その場面に関する鈴木の証言。

かくて、三名の意見開陳後、陛下には最後の断を下し給うたのである。(中略)純白のお手袋にてお眼鏡をお拭き遊ばされていたが、陛下は一段と声を励まされ
『このような状態において戦争を終結することについては、さぞ、皇軍将兵、戦歿者、その遺家族、戦災者らの心中はいかがであろうと思えば胸奥の張り裂くる心地がする。しかも時運の赴くところいかんともなし難い。よって、われらは耐え難きを耐え忍び難きを忍び…』
と仰せられたかと思うと、玉音は暫し途切れたのである。仰ぎ見れば、おお、おいたわしや、陛下はお泣き遊ばされているではないか…。
 列席者一同は今度のご聖断を給わるについては非常に緊張し、いう者も聞く者も涙で終始したのであるが、この陛下の
『耐え難きを耐え…』
の玉音を拝するや、たまり兼ねた一同は御前もはばからずドット泣き伏したのである。

 なお、巻末に付せられた編者である息子・鈴木一の述懐によれば、この14日の御前会議の後、帰宅した鈴木貫太郎は息子を呼んで
今日は陛下から二度までも『よくやってくれたね』『よくやってくれたね』とのお言葉をいただいた」と言ったという。昭和天皇の老臣に対する気持ちが伝わるエピソードだ。
 昭和天皇の鈴木貫太郎に対する気持ちといえば、二・二六事件の際の「朕ガ最モ信頼セル老臣ヲ悉ク倒スハ、真綿ニテ朕ガ首ヲ締ムルニ等シキ行為ナリ」という有名な発言にも表れている(鈴木1人について述べたものではないが、侍従長は当然含まれる)。

 鈴木貫太郎は昭和天皇について「陛下の英明と寛大なご性格」と盛んに持ち上げる。生物学ではなく歴史学のような、統治に直接役立つことを学ぶべきではないかという意見に対して、
天皇機関説の問題が起こった時、まだ世の中に議論されておらん時だったが、新聞でご覧になって、機関説の問題は将来面倒になるものだ、あたかもルネッサンス当時の思想の対立した時のような性質のもので、今に厄介な問題になると仰せられた。
ように歴史にも明るかったと証言するなど。
 鈴木自身は「機関としての天皇」について意識的なようで、だから「聖断」を仰ぐことの特異性について強調している。その意味では昭和天皇個人の資質をアピールする必要はないのだと思うけど、しかし当時の世論に訴えかけるにはそれが有効だと判断したのかもしれない。この自伝は明らかに世論を意識しているわけだし。たとえば、侍従長としての鈴木自身が「君側の奸」と言われたことに対して、その誤解を解こうとしている。

 鈴木貫太郎は1867(慶応3)年生まれ。翌慶応4年が明治元年であり、いわば明治の申し子だ。築地にあった海軍兵学校を卒業して海軍に入り、日清・日露の両戦役を最前線で戦い、海軍次官、連合艦隊司令長官、軍令部長を歴任し、予備役に編入されて侍従長になったのは1929(昭和4)年、62歳のときだ。二・二六事件の後に侍従長を退いた。
 ここまでの出来事について1939(昭和14)年2月から1944年8月に聞き取りを行い、1945(昭和20年)に78歳で内閣総理大臣に就任して終戦までの出来事については翌年夏に聞き取りを行ったという。だから終戦時のいきさつに関しては、眉に唾して読むべきなのかもしれない。昭和天皇の戦犯訴追がホットな話題だった時期だから。
 ちなみに鈴木は1948年に81歳で亡くなっている。

 この自伝は、やっぱり侍従長になった後の方が面白いのだが、海軍時代について全く無視するのはちょっと申し訳ない。
 なので、軍人時代の記述で面白かったところをメモ。
 幕末を生き抜いた先輩司令官のアドバイスだ。
会津戦争の時にわが輩は兵隊だった。敵が強いので容易に降参せず、たがいに土手をへだてて相対していた。今の塹壕戦である。数日不眠不休でそれをやっている。そうするとだれも苦しくなって、ことに眠れないのが非常に苦しい。兵士のうちにはこんなに苦しいなら、いっそのこと斬り死にに敵中へ飛び込もうじゃないかといって命令もまたずに斬り込みをやって、向こうへ行って死んだものも何人かあった。(中略)戦いというものは眠くなって眠れんというと死にたくなるものだからよほど注意せねばならん。

おススメ度:★★★
(明治生まれの人物の語りなのだけど読みやすい)
歴史資料度:★★★★★
(同期生として秋山真之を等身大に語っているのが新鮮)
※後記:同期生じゃなかった。秋山は兵学校では3年後輩。

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