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2005年5月29日 (日)

目標管理制度にみるジーコジャパン

成果主義賃金の浸透により、目標管理制度(MBO)は今や日本企業にとって欠かせないものになっている。
要するに、単年度の成果なるものを測るための手法は、他には未だにないのが実情である。プロセスをきちんとみるとか、目標以外の業務についても評価するなど、各社が様々なアレンジを加えてはいるが、新たな手法が生み出されるには至っていない。「期初に目標を決めて、期末にその達成度をみる」という骨格は、成果を測る唯一の手法として幅を利かせている。

その目標管理の要諦は、企業が立てた経営目標を全社員が共有できることにある。
会社の目標をかみ砕いたのが役員らの目標となり、その役員の目標をかみ砕いたのが彼の部下である部長らの目標となる。さらに、その部長の目標は課長へ、課長の目標は一般社員へと降りていく。目標管理という名前のとおり、部下の目標は上司との話し合いによって決まるわけで、彼らに相応な目標を設定させるのは、あくまでも上司の仕事である。
全ての部下が目標を達成すれば、上司の目標も達成されるーー。それこそが目標管理の最大のポイントであり、よって、すべての社員が目標を達成できれば、必然的に会社の経営目標は達成される。当然、企業の業績は上がり、給料の原資も自ずと上がり、株主を含めたみんながホクホクというわけだ。

さて、ようやく本題に入るが、日本代表をこの目標管理で考えた時、我々はどういう結論を下すべきか。
大手企業が大好きなコーポレート・ガバナンスの考え方でいえば、日本サッカー協会をひとつの企業とするとき、我々ファンは言うまでもなく日本代表の顧客だし、あるいは株主にも匹敵する存在だろう。
いつも偉そうな川淵殿は社長だろうし、ジーコは役員なり、最も大きな部門の長だろう。もちろん、日本代表のメンバーは、一般社員ということになる。

さあ、ジーコの目標を思い出してみよう。「W杯本大会でベスト8進出」ーー。数値化された、極めてわかりやすい目標だ。
ジーコはこの目標を実現するため、部下である選手に目標を設定・管理し、チームとしての結果を出させなければならない。
しかし、ジーコが彼らに与えている目標とは何だろう? 言うまでもないが、「次の試合で勝て」とか、「持てる力を全部出せ」とかいうことでは困るのだ。もっと言えば、「カウンターに気をつけろ」というのは目標ではありえない。監督である以上、ジーコは「カウンターによる失点を防ぐために、こうしろ」と具体的な指示を与えなければならない。仮に、選手が指示どおりにやってもカウンターから失点したら、それはジーコの指示が間違っていたことになり、ジーコの責任が問われる。また、選手が指示どおりできずに失点したのなら、それは選手にも責任があることになる。
それこそが、プロの関係のはずである。

結局のところ、我々ファンが抱いている大きな疑問は、「ジーコはどうしてチームに約束事を決めないか」に尽きる。我らが指揮官は一貫して「それは選手がつくっていくことだ」と口にするが、海外組の都合でガチャガチャとメンバーをいじっておいて、「自分たちで何とかしろ」というのは、あまりにナンセンスだろう。監督の指示による約束事があるのであれば、初めて参加した選手だってそれに沿ってプレーできるはずだ。というより、それができないのであれば二度と呼ばれないだろうと考える。

ところが、その約束事がいっこうにみえないから、我々は苛立つ。
メディアや選手の言葉を借りるまでもなく、試合をみれば、チームがいかに個人の能力に依拠しているかは、明らかだ、ゴールの多くはセットプレー絡みだし、多くのチャンスは、意地になって突破を試みる三都主や、後方から相手DFの裏へ放り込まれたロングフィードでもたらされる。FWがくさびを受けるために下がってきても、それに合わせて前に出ようとする中盤の選手はいない。ワンツーなどは試みられることさえなく、高い位置でボールを奪取するために、複数の選手が連携してプレスに行くシーンもみられない。どうやってチャンスをつくろうとしているのかが、まったくわからない。

現在の状態では、スタメンで出られる選手は「自分が他より優れている選手だから出られる」と思うし、たまにしか出られない選手は「劣っているから出られない」と思うのではないか。それが、ジーコの提示した戦術(=目標)の中での優劣なら構わないが、その戦術がないのだから、単にジーコにとっての評価となってしまう。「ジーコの好きな選手はどんな選手か」ってなもんである。
選手にとっては、何を基準に評価されているのか全くわからないし、極論すれば、20年前のスター選手に今のサッカーがわかるのか、と思われても仕方ない。つまり、彼らは目標すら与えられずに評価を下されているわけで、ベンチに座る選手はたまったものではない。チームが空中分解しないのは、
多くの選手がチームの目標ではなく、個人の目標を持っているからではないか。それはもちろん、ドイツW杯に出るという・・・。

繰り返すが、選手の目標はあくまでも「チームとしての戦術」でなければならない。それを選手に示すことこそが、監督の仕事である。戦術があって初めて、選手は自分の役割を見いだし、それを全うしようとする。FWならFWの、DFならDFの役割が決まってくるはずである。それがチームというものではないのか。
「W杯本大会でベスト8進出」とは、あくまでジーコの目標である。一部門の長としての、彼が果たすべき目標だ。もちろん、それは選手の目標でもあるわけだが、監督はそれを達成するために何を為すべきかを、示さなければならない。例えば、いちサラリーマンが、「会社の営業利益を10%上げるのが目標」と言われて、「はい、わかりました」となるだろうか。自分の目標と部下の目標が同じでよいという態度は、高いサラリーを約束され、さらに自分の好きな選手を招集できる身分からすれば、100%間違っている。少なくとも、ステークホルダーである我々にとっては、そうでしかありえない。
ただ単に、「自分にとって良い選手」を選べばよいのであれば、我々にだってできるし、是非、やらせていただきたい。それが、我々の本音ではないのか。

就任以来のジーコをみていると、「あくまでも僕の理想は9人野球です」と言ったミスターにダブってしょうがない。日本プロ野球界における最大のスターは、かつて以下のようにおっしゃられたものである。
「今シーズンはたまたまベテランと若手を切り換える過度期ということでアメフト野球をせざるをえなかった。正直言いましてね、これは疲れるんですよ。代走がどう、ピンチ守備がどう・・・。5,6回になると、もう8,9回のことを頭に入れておかねばならないんですから、精神がクタクタになってしまう。僕はこういうのは好きじゃないですねえ。9人に試合の全てを任せることができれば、もうどれだけ気分が楽だろうかと・・・」。
いやあ、疲れてくださいよ、ミスター。それが監督の仕事でありましょう、と言いたくなる。
ジーコとミスターの人間性が同じだとは全く思わないが、実際にやってることはほとんど変わらないように思える。「戦術で勝てるのなら、監督はいらない」と言われても、それは単に「監督で勝てれば、戦術はいらない」ってことでは?
マンU全盛期のファーガソンだって、そんなことは言わなかった。もう少し、新米監督としての自覚を持っていただきたい。日本には、ロイ・キーンもブルースもカントナもいないんだぜ。

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  • 荒木又三郎
    高スポ創刊者にして主筆。ACミランを愛する後天性フランス人。高スポ編集雑記に本音をぶちまける。
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