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2006年2月16日 (木)

うらやましいアメリカと情けない日本

 手も足も出なかった。高い位置からのプレスを徹底するアメリカに対し、ジーコが狙うパスサッカーはまったく通用しない。復活した久保は前線で孤立し、日本が誇るパサーたちはミスパスを繰り返す。後半の巻き返しは、相手の脚が止まっていたからこその結果であり、勝負としては完全に負けていた。シンプルなアメリカの戦術はただただうらやましく、それに対して日本は、身の丈に合わない攻撃を繰り返し、臆病な守備でゴールを献上した。

 アメリカの戦術は、うらやましいほどに明確だった。日本陣内から積極的にプレスをかけ、奪ったボールは早めにサイドに散らしていく。攻撃のアクセントをつけるのは10番のドノバンに限られ、他の選手達は果敢に攻め上がりつつ、受けたボールはあっさりとはたいていく。ある意味、極めてシンプルな戦術だが、日本相手にはこれが驚くほどはまった。
 今さらいうまでもないが、日本は(というよりジーコは)、攻撃においては中盤でのボール回しを重視し、守備においては引いて抜かれないことを重視する。しかし、アメリカからしてみれば、これほど御しやすいことはなかった。攻守を切り替えるために中盤で短いパスをつなぐ日本は、プレスの格好の餌食であり、と同時に、プレスやパスカットを狙わない守備は、ワンタッチパスを駆使したショートカウンターを容易にする。相性が悪いといえばそれまでなのだが、その前にまず、根本的な問題を考えるべきだろう。つまり、アメリカはなぜ、日本と相性の良いあの戦術を選んでいるのか、について。

 個人的には、アメリカの実践する戦術こそ、日本のとるべき道だと思う。なぜなら、日本には世界に通じる「攻撃の決め手」が存在しないからだ。つまり、得点の可能性を高めるために最優先すべきは、「より相手のゴールに近い位置で攻撃を開始すること」に他ならない。
 ジーコジャパンには、単独での突破を図れるサイドアタッカーはおらず、前線で孤軍奮闘して点を取れるFWもいない。日本が持つ決め手といえば、とどのつまり、中村のFKぐらいのものだろう。確かに、何人かの優れたパサーを擁しているかもしれないが、それだけで「決め手」になるほど、現在の国際標準(グローバル・スタンダード)は甘くない。実際、小野、小笠原、遠藤の3人がいるにもかかわらず、日本はことごとくアメリカのプレスにボールを奪われた。(アメリカ戦の前半こそ、このチームにおける柳沢の価値を雄弁に物語るものだったと思うが。「柳沢はジーコの欠かせない「切替器」」参照)。
 結局のところ、攻撃の決め手を持たない弱者が、強者と対等に戦っていこうとするなら、高い位置でボールを奪うしかない。相手陣内でボールを奪えれば、決め手などなくとも一本のパスでチャンスはつくれる。虚を衝かれた相手ディフェンスに対してであれば、FWがフリーになることはたやすく、また、パサーたちはご自慢のスルーパスで決定的な好機を演出できる。その理想的な状況を生み出すために必要な手段こそ、前線からのボール狩りであり、アメリカはまさにそれがゆえに、あの戦術を選んでいる。
 サッカー後進国であるアメリカは、基本的には90年代からこの戦術を続けている(ようにみえる)。彼らには、スタミナとボディコンタクトにおける肉体的な強さがあり、いわばこれが適しているという判断もあるのだろう。実際、自国開催の94年W杯以来、コンスタントに結果を出してもいる。  
 ことわっておきたいのは、前線からのプレスとは負け犬の手段ではないということだ。それはたとえば、徹底的に自陣に閉じこもり、相手のミスをうかがいつつ耐え忍ぶことをいう。あくまでフェアにやり合うため、自陣ゴール前にスペースをつくってしまうリスクを抱えつつも、彼らはプレスをかけにいくのだ。
 しかし、ジーコがみているのものは、どこまでも強者の戦術である。守備において前線からのプレスに頼らないのはみてきたとおりだが、攻撃においてもあまりにも身の程を知らない。優れたパサーによる中盤でのボール回しなど、完全に時代遅れだ。現在、本当の意味で、中盤でのボール回しを第一義に考えている代表チームは、アルゼンチンぐらいだろう。多くの「10番」を抱えるブラジルでさえ、彼らを中盤の底に据えようなどという愚は犯していない。にもかかわらず、ジーコはウイングバックであるアレックスをサイドバックに押し込んでまで、中田と中村、さらには小野の共存を夢見る。決定力不足を嘆くが、そもそも何をもって理想的な得点パターンとしているのかがわからない。彼の就任以降、アレックスや加持の苦し紛れのセンタリングは散々見せられてきたが、まさか、高さで競り勝てるかもしれない選手が久保と中澤の二人しかいないなかで、それが理想というわけではあるまい。率直にいえば、あのチームには「どうやって、どの位置でボールを奪うのか」という戦術もなければ、「どうやって得点の好機を演出するのか」という戦術もない。だから、「優れた選手がたくさんいるのだから、彼らがお互いを理解すればチャンスはいくらだってできる」という話になる。仮にジーコ以外の人間がこんなことをめざしたなら、世界中の指導者は鼻で笑うと思うのだが。
 何人もの優れたパサーを抱えているから、攻撃においてその特徴を生かそうというのは正しい(あえて言い切ろう!)。しかし、今の日本代表にはそのための戦術のベースがないのではないか。彼らがその能力を生かすために必要な前提が、高い位置で攻撃を開始することなのだと、ワタクシは考える。そのためにもっとも有効な手段が、組織的なボール狩り=前線からのプレスなのではなかろうか。

 現在の日本の守備は、裏を取られるのが怖いからといってディフェンスラインを下げ、さらに、突破されるのが恐ろしいがゆえに相手との距離をとる。率直に言って、攻撃においてはこれ以上ないほどに強者ぶるくせに、守備においてはとことん臆病者である。逆にいえば、アメリカは守備においてはアグレッシブで、攻撃においては合理的である。そしてまた、彼らの肉体的な優位性は、シンプルな攻撃を成功させる確率(そしてさらにセットプレーを成功させる確率)を高めてもいる。
 残念なことに、総合的にみて、日本にはそれだけの頑健さはない。なればこそ、日本には不合理な攻撃の型が求められる。列強と戦っていくためには、今やトレンドになってしまった「いやらしいまでに高度な守備戦術」を崩し得る不合理さが、求められる。その不合理さを実現するのはたぶん、優れたパサーたちである。そしてその条件を整えるために、ワタクシは果敢なる守備を望む。少なくとも、不動のストッパーの口から「どこでボールを取りに行くのかわからなかった」などという言葉は聞きたくない。3-6-1が良いだの悪いだの、そんな机上の空論は聞きたくない。

 最後に、交代選手たちについて。
 日本が挙げた2得点は、いわば社交辞令のようなものだった。前半にプレスをがんばりすぎたアメリカは、後半、脚が止まっていたようにも見えた。あるいは、もはやテキトーに流しておけばいいといったところだったに違いない。長谷部の活躍はなるほど好材料だったが、そこを差し引いてみる必要がある。コンディションの面で他の選手より整っていたということもあろう。彼には、ゼロックススーパーカップが待っている。個人的には最も期待している選手であり、あれぐらいはできて当然だとも思うし、むしろこれまで活躍の場が与えられなかったことの方が納得がいかない。

 得点を挙げた巻については、未だに疑問符がつく。彼の能力にではなく、ジーコの評価はしょせん、鈴木の代役に過ぎないのではなかろうかということ。その意味で、サイドに流れがちな様子には、期待されている役割とのギャップも感じだ。ポスト役としては、いかがなものか。
 佐藤については、不運だったとしか言いようがない。巻の投入もそうだが、ジーコはおそらく、久保は前半までと決めていたように思った。何をすべきかがみえないまま、彼は必死にできることを探していたのではあるまいか。代表チームとはしょせんそうしたものだろうが、可能性を持つ選手がふさわしくない場でのチャレンジを余儀なくされる姿は、いたたまれない。

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  • 荒木又三郎
    高スポ創刊者にして主筆。ACミランを愛する後天性フランス人。高スポ編集雑記に本音をぶちまける。
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