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2006年8月30日 (水)

ジーコを否定するための生け贄〜オシムの船出(4)

 呆けている間にサウジ戦が終わってしまった。そのため、いまや遅きに失した感もあるが、あえて加筆した第4回目を公開したい。

 オシムは、ジーコの遺産の限界を見せるために、三都主と遠藤を呼んでいるのではないだろうか。サイドアタッカーとしての三都主は、悲しいかな、今も国内ではトップクラスである。しかし、スタミナ面は大いに疑問だし、そもそも、彼は他人のために労を惜しんで走るタイプではない。その点については、遠藤にも同じことが言える。ガンバ大阪では優秀な攻撃陣を操っているが、実際にはチームメートに活かされているのは彼のほうではないのか?とも思う。 例えばピルロやシャビと比べたとき、彼の運動量はあまりにも少なくはないだろうか? 結局のところ、二人とも機動性を重んじるオシムが好む選手とは思えないのである。

 そして一方で、彼ら二人より走れるだろう小笠原を召集しないことも、そのことを補完する。もしかしたら、ジーコサッカー否定の世論が完全に出来上がってから、彼を呼ぶつもりなのかもしれない。その点については、小野にしても同様だ。長い距離を走れるかどうかはともかく、ダイレクトパスは彼の得意とするところであり、ボールの受け手としての能力は、三都主や遠藤を凌駕する。どちらの二人がオシムのめざすサッカーにふさわしいのか、考えれば考えるほど、彼らが生け贄の羊に思えるのだが(もっとも、これまでの(イエメン戦までの)選考基準がJリーグでの活躍に拠っているのは明らかなので、表面的にはおかしくはないのだが…)。

 つまり、オシムは「ジーコがめざしたサッカー」ではなく、「自分がめざしているサッカー」こそが、日本に向いていることを世論に認めさせようとしているのではないか。だからこそ、三都主を起用しておいて「90分間を走れない選手がいた」ことを指摘するし、阿部がいるにもかかわらず三都主と遠藤にFKを任せて、「打ち合わせどおりに蹴らなかった」と文句を言うのではないか。しまいには2対0で勝利しながら、「皆さんも不満だろうが、私も不満だ」と、機能しなかった攻撃をあげつらう。「DFラインでのパス回しが各駅停車だった」と述べたのは、マスコミが例によって「決定力不足」と見出しを立てるのをやめさせるためなのではないかとすら思えてくる。
 サウジ戦後の会見では、「右か左か、具体的には言わないが、機能しなかったサイドの選手は、経験のある選手だったので、非常に残念な誤算だった」なる発言も飛び出したようだし。マスコミは、負けたことで早速、オシム批判に回っているようだが、攻撃を三都主と遠藤に委ねて負けるのは、むしろシナリオ通りなのではないだろうか。むろん、そこに100%の悪意があるとは思わない。先にも述べたように、三都主は日本随一のサイドアタッカーであり、遠藤も優れたパサーである。彼らが生まれ変われるのであれば、それに越したことはないと思っているはずである。だから、オシムは「彼らのお尻に火がついている」ことをアピールする。しかし、残念ながらというか、さにあらんというか、当の本人たちがそれに気づいているとは思えないのだが。


 さて、仮にこの仮説が真実だとすれば、運が良かったのは中村俊輔である。なぜなら、彼こそは最もうってつけのスケープゴートだから。玉離れは悪く、自らは動かず、しかもスタミナがない。それでいて39度の熱があってもW杯の舞台に立てるほど、彼は指揮官に信頼されていた。「オシムの本は読んだ」などと相変わらず幼稚なコメントを繰り返しているが、自ら熱があったと言い訳するような選手を厳格なオシムが好むはずがない。だって、そんなコンディションの選手からポジションを奪えなかった控え選手たちは、いったいどう思うだろう? あるいは、そこまで明確な序列のあるチームに選手を派遣したJリーグのクラブ関係者はどう思うだろう? 自らの技術に酔い、稚拙な言動を繰り返す彼こそは、オシムが否定したがっている「ジーコの負の遺産」の最大の象徴ではないのか? 年内は海外組を呼ばないとオシムが発言したそうだが、むしろ生け贄になるより、一度も呼ばれないまま代表を去る方が幸福だろう。これまでオシム自身の口から出た海外組の名前は、ルマンの松井だけらしいし。

 最後に、この場で鬱憤を晴らしたい。W杯後、協会やマスコミは「ジーコは自由を与えたが、選手たちにはそれに応えるだけの力がなかった」という主張を披露した。しかしワタクシに言わせれば、ジーコのやったことは、自らのためにしかプレーできないガキどもを放任しただけなのだと思う。例えば遠藤は、W杯前に某・週刊サッカー雑誌で「ジーコジャパンの戦術論」をぶちあげた。現役の代表選手が、代表チームのとるべき戦術についてマスコミに語ることなど、許されないことである。しかも彼は、あのチームではベンチ要員ではないか。見方を変えれば、平社員が会社のとるべき経営戦略について公の場で語ったようなものである。ジーコやサッカー協会は、プロが持つべきモラルというものをどう考えているのか、と思ったものである。サッカーゲームに明け暮れていれば、公の場で戦術を語れるだけのステイタスが持てるとでもいうのだろうか。しかしその後、遠藤に何らかのペナルティが課されたという話はついぞ聞かないが。 また、久保のワントップを試した際には、多くの選手が「無理ではないが機能させるには時間がかかる」旨のコメントをした。しかし、そんなことは本来、監督が評価すべきことである。岡ちゃんやトルシエが、いやJリーグの監督たちが、選手にそんなことを許すだろうか?

 ジーコはどうしようもないほどなめられ、選手たちはどうしようもないほど天狗になった。監督が監督の仕事をしないから、中心選手たちはチームが自分のものであるかのように勘違いしたのだと思う。むろん、彼らにはそんなつもりはなかったのだろうが、チームメートを批判し続けた中田英寿が「孤立」したのも事実である(もちろん、本当にどうだったのかは知らないけど)。しかし、不思議でならないは、監督が「日本で最も偉大な選手」として主将に据えたがった人材が、どうしてそんな立場になってしまうのだろう。それはまるで、真面目一辺倒で口うるさい学級委員が、クラス中から無視されるのと同じではないのか? まるで小学生だ。

 中田が当初ジーコに期待したのは、「個人が自らの判断でプレーするサッカー」だったと思う。選手はポジションや戦術に縛られず、その時々に応じた選択をし、チームに貢献する。機能すれば魅力的なサッカーだが、そのためには選手が臨機応変に「より効果的な判断」を下せることが条件になる。
 結局、ジーコが「選手たちの判断力」をどう評価していたのかは最後までわからなかったが、中田は彼らが正しい判断をしていないと感じていたのだろう。中田の不満はそこにあり、周囲とのギャップはそこに生まれたはずである。
 本来であれば、中田が正しいのか、あるいは他の選手が正しいのか、ジーコはきちんと評価しなければならなかった。それさえはっきりしていれば、一選手に対して「孤立している」などという馬鹿げた報道が繰り返されることはなかったはずだ。そう。仮に中田が間違っているのなら、「中田は不満分子だ」という話になるべきだった。そうであれば、W杯後の特番で偉そうな解説を吐くような馬鹿げたこともしなかったはずである(彼はただ、「人間性はともかく、トルシエは監督としては優秀だと思う」とだけ述べればよかったと思う。公の場でチームを評価するのは、選手の仕事ではない。それでは遠藤と変わらない)。

 試合の評価を述べる(マスコミの評価を誘導する)のは、監督の仕事である。しかし、戦術面で妥協を繰り返したトルシエは、任期の終盤、それを自らの地位を得るために利用した。ジーコに至っては、試合における良否を示せるほどの戦術すらなかった。その結果、「戦術でチームが勝てるなら監督はいらない」などという意味不明な発言まで飛び出した。
 翻ってオシムは、どうだろう。ここまでの振る舞いは、期待を抱かせるに十分だと思う。試合に勝って大喜びするでもなく、口にするのは修正すべき点ばかり。それが、「自らのめざすべき形」に基づいた修正点であることは、すでに述べてきた。残念ながらサウジ戦を見損なってしまったのだが、ネット上で紹介されている会見内容を見れば、彼がいかに試合の場面、場面での評価を語ろうとしているのかはわかる。それはこれまでの日本代表の監督になかった姿勢であり、試合を見ていないこちらには、ネット上で書かれる多くのニュースだの速報よりも、リアルだ。たとえば、FWの動き出しは決して少なくなかったであろうこと、中盤が機能しなかったこと、無目的なクロスが再三上げられたこと、そして相変わらずDFラインで無難なパス回しが行われたこと、がわかる。実際は違うのかもしれないが、最低限、彼がチームをそう評価しているとアピールしていることは、わかるのだ。それは、彼の雇い主である協会にとっても、チームの未来に期待する我々ファンにとっても、真摯な態度だといえるのではあるまいか。少なくとも、中田が孤立するようなことはなかったはずである。オシムの良き理解者になるか、不満分子としてチームを追われたことだろう。もちろん、ワタクシは前者となったことを期待するし、返す返すもオシムと中田がすれ違ったことが口惜しい。
 そんなわけで、たとえアジアカップ予選で敗退しようとも、ワタクシはオシムを支持する。代表チームには、潤沢なトレーニングの時間はないが、彼のめざすサッカーをやるには時間がかかる。どこかの強豪国でならともかく、日本ではそうなのだ。そんなことはジェフを見ていればわかりきったことである。仮にこの段階で成績不振を問うのであれば、問われるべきはむしろ彼を選んだ協会であろう。
 少なくとも、ファンの側に向いて物を語っているのが誰なのか、我々は見誤っていけないと思う。自分のような偏狭な人間がどのくらいいるのかわからないが、ジーコやジーコの「子供たち」が、こちらを見ていたとはまるで思えない。協会については、言うまでもないだろう。スーツを着たオヤジが、我らが主将に飲料水の絵が描かれた立て看板を手渡す光景なんて、見たくもないぜ! 我々は、ファンのために戦う監督と、ファンのために戦う選手を欲するべきだと思う。選手と監督が馴れ合う姿など見たくもない。もっとも、オシムの怒りが前任者二人のそれと同じに思えるのなら、それはそれで仕方がないけれど。

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高スポ執筆者

  • 荒木又三郎
    高スポ創刊者にして主筆。ACミランを愛する後天性フランス人。高スポ編集雑記に本音をぶちまける。
  • 三鷹牛蔵
    高スポの陰の支配者。湘南ベルマーレを愛する先天性ジャパニーズ。

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