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2006年10月 7日 (土)

ガーナ戦、後半24分にみるオシムの理想

 勝敗はさほど問題ではない。求められるべきは、オシムの戦術がどれだけチームに浸透したか、あるいはオシムの戦術がガーナ相手に通用するのか、だと思う。その意味で、失点直前の後半24分のプレーには、光明がみえた。今回は、試合を見なかった人間には決して通じないだろう話を、くどくどと語らせていただく・・・。

 ガーナは、未熟なチームである。もしも彼らがイタリア人ほどに戦術的なプレーができるなら、どんな国とも互角にわたり合えるだろう。かつてナイジェリア代表が、アリゴ・サッキをして「彼らが戦術を覚えれば無敵」と言わしめたのと同じに。
 惜しみなく前線に兵力を投入する彼らの大胆不敵な攻撃は、相手に脅威を与えるとともに、カウンターを喰らった際には自らのカタルシスをもたらす。アフリカ人特有の股関節の柔らかさは、精度の低いパスをものともせず、ドリブル時にはそれはそれは大きな切り替えしをみせてくれるが、一方で守備時にはあっさりとかわされるお間抜けさにつながっている(前半、あまりにも三都主のフェイントが効いていたのは、だからこそである)。プレー選択の大胆さは、自らのピンチを招きがちだが、そのことを相手より得点することで解消しようと、また破滅的な攻撃を繰り返す。
 何を言いたいのかと言えば、ガーナ代表とは、成長過程のオシムのチームが自らの力を試すに、ふさわしいチームではなかったかということだ。チームが果敢なチャレンジを繰り返したとオシムは会見で胸を張ったが、彼のめざす戦術からすれば、内容で勝っていたと語るのは間違ってはいない。両翼がDFラインに引く時間が多かったことをもって守備的と考えるのは、まったくもってナンセンスだ。サイドアタックに頼らないガーナがつくり出すチャンスがことごとく個人技によっていたのに対し、日本はあくまで戦術的に好機を生み出していた。にもかかわらず、日本はチャンスの数でわずかながら勝っていたと思う。であるならば、素早く攻めきるのが戦術的な狙いである以上、守備に擁した時間をうんぬんするのは馬鹿馬鹿しい。得点できなかったことを問題にしたいなら、別の切り口から考えるべきである。

 さて、能書きはこれくらいにして、本題に入りたい。日本は後半24分、今後の指針とすべき素晴らしいプレーを見せてくれたと思う。残念ながら得点はおろかシュートにも漕ぎ着けなかったのだが、オシムのめざすフレキシブルな攻撃(言いたくはないが、考えながら走るサッカー)が垣間見られた貴重なシーンだったと思う。まあ、その直後に失点してしまったわけだが。
 プレーのはじまりは、自陣深くの左サイドで羽生がボールを手に入れたところである。相手のミスから転がり込んできたそのボールを、彼はいったん中央の遠藤に預けた。ここでもし、遠藤が前線にパスの出しどころを探し、結局は横パスを選択していたら、ジーコ時代となんら変わらなかったはずである。しかし、オシムの愛弟子たちは、求められている役割を全うした。
 まずは、この日3バックの中央を務めた阿部が、果敢にもオーバーラップを敢行して敵陣に向けて走り出した。それをみたガーナの選手たちは当然、行く手を阻もうとする。敵陣に入ったところで阿部は2人の選手に前を阻まれるが、彼は相手に背中を向け、重心を落として遠藤からのボールを受けた。そう。見事なまでにくさび役を果たしたディフェンスリーダーは、体勢を崩しながらもワンタッチで遠藤にボールを戻す。言うまでもないが、このときの遠藤はまったくのフリーで、しかも正面を向いている。阿部のオーバーラップが、ゲームメーカーの自由をつくりだした瞬間だ。自らの技能を生かす好機を与えられた遠藤は、余裕たっぷりにダイレクトで相手陣内の左サイド奥深くへとロングスルーパスを放り込んだ。ボールが飛んだ先には、先ほどまで自陣にいたはずの羽生が走り込んでくる。それこそは、ジーコジャパンがどうしても作り出せなかった状況だ。相手の守備が整う前に、味方の選手が敵陣のサイドでまったくのフリーでボールを受ける。中央に切れ込みながらセンタリングのタイミングをうかがう羽生はしかし、ラストパスの相手を誤る。ニアに走り込んだ播戸の裏で、斜めに走ってファーに向かった巻は、完全にフリーだった。ところが羽生は、ニアへのグラウンダーのクロスを選択してしまう。その結果、ボールは播戸の手前に割って入った相手DFにクリアされてしまう(ちなみにTBSの放送では、フリーだった巻を阿部と勘違いしていた。もちろん、少し遅れて阿部もゴール前に走り込んではいたのだが・・・)。
 ゲームメーカーである遠藤をフリーにし、彼の持つ「ダイレクトで精度の高いパスを出せる技術」を生かしたのは、阿部と羽生である。そしてそれは、プレーの流れの速さをも実現している。確かにガーナはカウンターを恐れずに破滅的な攻撃を繰り返すが、それでも結果的にゴール前に走り込んだ2トップのうち片方がフリーになれたのである。それは、自陣でボールを奪った後、日本がいかに素早く、かつ合理的に(つまり相手の裏をかきつづけながら)ボールを運んだかを示す。
 このような状況を、相手のミスに助けられることなく作り出すことが、ジーコのチームにできただろうか。例えば、加地は羽生が演じた役を果たそうとし続けていたかもしれない。しかし、宮本が阿部のようなプレーを試みることが何度あったろう。むしろ誰もが、遠藤がやったようなプレーをするチャンスをうかがい、結局は意味もなく中盤でボールをキープし続けてきたのではなかったか。
 後半24分のシーンは、ボールを持っていない状態で走ることの価値を雄弁に語る。それを行ったのがジェフに所属する羽生、阿部、巻の3人だったことは、代表におけるオシムサッカーの浸透度という意味では皮肉だろう。しかし同時に、彼らのプレーがパサーとしての遠藤に最高の仕事をさせたのも事実だ。それこそは、ゲームメーカーは最大で2人というオシムの正しさを示すものだろう。率直に言えば、あのプレーにおける遠藤の代わりは、中村にも小野にも小笠原にもすぐにできるだろう。今の段階でやるべきことは、ゲームメーカーが誰かを決めることではなく、それが誰になるのであれ、彼の技能を生かすためのベースをつくることなのだとオシムは考えているのだと思う。その判断は、まったく間違っていないと思う。

 確かに、相変わらずの「チャンスはつくれどもゴールは生まれず」という試合だった。しかし、チームは確実に前進している。意味もなく走り続けているケースが多かった今までの4戦より、みるべきところははるかに多かった。そりゃあ、確かにガーナは、サイドアタックを使わないくせに人数をかけて攻め倒そうとし、カウンター対策としていかにも危なげなオフサイドトラップでフォローしようとするチームではある。オシムがめざす攻撃を試すには、自陣に引いてこもろうとする格下チームよりずっとふさわしかったろう。
 惜しむらくは、ゴールが生まれなかったことより、失点にある。あのシーンは、必ずしも戦術的なミスによるものではない。ゴール前にクロスが入ったとき、敵が一人だったのに対し味方のDFは二人だった。少なくとも、声さえかけられていれば、阿部はシュートコースに体を入れることができたはずである。結局のところ、不用意にクロスを入れさせてしまったこと、決してマークを交わされていたのでもないのにシュートを許してしまったこと、この2つのプレーが続いて、日本は失点を許した。これはむしろ個人能力の差だ。どちらかのプレーを防いでしかるべきだったし、何よりも立場が逆になったとき、日本のFWでは得点できない状況でもあったろう。そのことが示すのはつまり、相手より多くのチャンスをつくらないと、日本は互角には戦えないということになる。
 後半24分のプレーを、強豪相手に1試合に5度も6度も出せるかというと、それはオシムの戦術がいかに浸透したとしても、厳しいと思う。しかし、オシムが嘆くように、日本には優秀なDFはいない。アジアレベルならばともかく、中堅国のエースを1試合通じて抑え込めるほど優れたDFは一人もいない。以前にも指摘したように、これは国際試合で決定力を見せるような優秀なFWがいないこととリンクしている。国内リーグに良いFWがいなければ良いDFは育たないし、良いDFがいなければ良いFWもまた育たない。Jリーグにおいて、外国人FWが得点ランキングの上位を占めることを、日本人DFはもっと恥じるべきだろう。少なくとも日本人FWと同程度には。

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高スポ執筆者

  • 荒木又三郎
    高スポ創刊者にして主筆。ACミランを愛する後天性フランス人。高スポ編集雑記に本音をぶちまける。
  • 三鷹牛蔵
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