ゴールド・グラブ賞の歴史を変えた守備の心得
「だれもがウィリー・メイズやロベルト・クレメンテのような名選手になれるわけはない。だがある程度のスピードと運動神経さえあれば、だれでも野球の守りはやれるものさ。」
という、やや腰の引けたコメントで始まる守備の章は、ピート・ローズらしさはやや欠ける。が、それでも随所にハッスルぶりが垣間見える。
(『ピート・ローズのハッスル野球教室』訳・土屋一重 報知新聞社 昭和54年3月31日初版発行)
セカンド、ライト、サード、レフト、ファーストの各ポジションで試合出場を果たしたピート・ローズは、守備においても「万能」と評されることが多い。本書でも各ポジションについて詳細に技術的なアドバイスをしているが、膨大な分量であるので、心構えなどの導入部を紹介する。
●二塁手のプレー
1963年大リーグに抜擢されたオレが最初につかんだポジションは、レッズが1961年に優勝したとき活躍したベテラン、ドン・ブレイザーをけ落としての二塁手だった。世の中、アッといったものよ。
オレは二塁手としてはゴールド・グラブ賞を獲得しなかったが、十分にこなしたつもりだ。二塁手でリーグの新人王に選ばれたのだから、それほどへたでもなかったはずだ。
(二塁手の)フィールディングも世間でいうほどにはむずかしくない。一応の運動神経さえあれば、だれだってうまい内野手になれる、とオレは確信している。ヒザをやわらかくしてツマ先で立つ。手をリラックスさせて構え、ゴロは体の前で受け、グラブにはいるまで目を離さない。これだけのことを覚えておけば、なにもむずかしいことはないのさ。
イレギュラーバウンドはよく起こるものさ。これには全くお手上げだ。だからゴロの捕球は必ず体の前で――。そうすればバウンドが急に高くなって肩や胸に当たっても、それを拾って走者をアウトにする余裕は十分にあるのよ。
●遊撃の守り
遊撃手と二塁手のプレー上の違いを区別するなんて、ほとんど不可能だ。恋と結婚みたいに、切っても切れないものよ。1900年代初期、詩にまでうたわれて有名になったシカゴ・カブスの“ティンカー=エバース=チャンス”と渡る併殺コンビは、いまでも話題にのぼるくらいだ。
2人はフィールドの中心部を守り、併殺プレーでは一緒に働くことが多く、仕事も似かよっている。とても役割を分けるなんてムリな話だ。
さてオレがマイナー・リーグで二塁手をやっていたときの遊撃手は、のちにオールスター二塁手になったトミー・ヘルムズだが、当時の監督はわれわれを同室にした。
そして「2人はお互いにすべてを知るようになってもらいたい。そうなればグラウンドに出てもお互いの動きが前もってわかるようになる」といったものよ。
大変いいことだった。トミーとオレは親友になり、二塁周辺のプレーでもよく助け合ったものさ。もちろんこれほど極端でなくてもいい。たとえばジョニー・エバースとジョー・ティンカーは何年間も口をきかなかったそうだけれど、それでも名コンビだったのだから――。
●三塁手のプレー
三塁手の勉強をしたいと思うなら、まず勧めたいことがある。1970年のワールド・シリーズのフィルムを手に入れることだ。シンシナチ・レッズ対ボルチモア・オリオールズ戦だ。ぜひみるがいい。
このシリーズでブルックス・ロビンソン(オリオールズ)が、すばらしい守備のワンマンショーをやってのけた。当時レッズにいたリー・メイの打球をほとんどアウトにしたので、頭にきたリーが、ブルックスに“掃除機”のニックネームを献上したほどよ。なぜかって? 「あいつの守備はまるで真空掃除機のようだ。三塁側へ打った打球をみんな吸い上げちゃう」と嘆いたことでわかるだろう。
ともかくすごかった。ブルックスはどんなプレーも可能だった。常識では不可能なプレーでも可能にしてしまったのだ。猛烈なラインドライブをファウルグラウンドにダイビングしてグラブに入れてしまう。三遊間の方へダイビングしてはヒットが確実だったジョニー・ベンチの当たりをアウトにした。バントの打球を前進してきて素手でつかむと信じられないような送球で打者を刺したりもした。
だがなにが印象的かといって、ロビンソンはワールド・シリーズで最初に飛んできた打球をエラーしながら、その後こういうプレーをしたことさ。なみの選手だったら首をうなだれてしまい、シリーズ期間中ふてくされているのが精いっぱいだろう。ところがブルックスは違う。ガッツをむき出しにして生き返ったのだ。
ここに教訓がある。「すんだことはクヨクヨするな」というじゃないか。あとはどうしようもない。エラーだって同じさ。気分一新その試合のことだけを考え、チームのためになにができるか、だけを考えればいいのだ。
試合後、失敗したプレーを練習しなきゃ、と考えるのはいい。しかし試合中はいつも頭の中をクリアにしておこう。ブルックス・ロビンソンがやったように、失敗のことなど忘れ、積極的に考えるのだ。
ロビンソンは最初にエラーした後、がんばってシリーズ最優秀選手となり自動車を獲得した。「ヤツが車をほしがっていることを知っていたら、先にオレが買ってやったのに…」とオレも悔しがったものさ。
●一塁手のプレー
一塁手の主な役目は送球を捕って走者をアウトにすることだから、送球は土を掘り起こしてでも捕るつもりにならなきゃならない。送球が抜けて走者に塁を与えないよう悪送球でも確実に捕らなきゃならないのだ。
また送球の多くが向かって右側へくることを考えれば左利きが理想だ。左利きなら体の向きを変える必要もないし、右利きより(打球の)処理も簡単。ただボールを捕って二塁なり三塁なりへ投げればいいのさ。
といって右利きでも気に病むことはない。右利きの名一塁手もたくさんいる。近代野球で最高の一塁手といわれた昔のブルックリン・ドジャースのギル・ホッジスもその一人だった。
一塁手の最も重要なプレーは多分バウンドした低い球を捕ることだろう。ボールを怖がって顔をそむけてはいけない。ミットに入るまで、ずっと目をそらすな。ボールを追って倒れこまなければならないこともある。あのでっかいミットでボールをつかみ上げた一塁手が、ミットいっぱいに泥をつかむということもよくあることだ。
●外野の守り
外野守備での基本は積極性、攻撃的なプレーといえる。ヘイにぶつかることや他の野手とぶつかることを恐れていたら、それだけで外野手の資格はない。フェンスに挑戦し、飛び込んでいくのだ。内野手や他の外野手が近づいてくるのがわかっていてもボールを追っていこう。外野での衝突は避けられるのだ。(中略)微妙なとき中堅手が指示を出せば衝突は起こらない。
飛球に対する判断は自然にできる。できないヤツもたまにはいるが、そんなヤツは外野手としてお呼びじゃないぜ。
ボールが打たれたら外野手は必ずどこかへ動かなきゃならない。外野にじっと立ったまま、他人のプレーを見ていたって、なにもできはしない。
●捕手
捕手の装備がバカげた道具と呼ばれていた時代もあった。大ゲサな小道具を身につけ、えっちらおっちら本塁ベースのうしろまで出掛けるばかりか、捕球のたびに体をかがめるなんてまともな人間のやることじゃない、デク人形のやることだと思われていたものだ。
ところがどうだ。いま笑っているのはだれかね? 捕手連中だぜ。たまたまシンシナチのチームメートとしてジョニー・ベンチという男が出現して、捕手のイメージは一変したのよ。ジョニーは捕手というものが完ぺきな運動選手で、スーパースターにも、アイドルにも、そのうえ大金持ちにもなれることを証明した。
新米の若い捕手がやる共通した間違いは投球がミットにはいるまえにマバタキをすることだ。目の前になにかがくればマバタキをするのは自然の反応で、打者がスイングするときほとんどの捕手がマバタキをしても不思議ではない。
といって目をつぶってしまえば見えないのだから、見えないものは捕れないことも事実だ。ほんの一瞬ボールを見失っただけで、ボールを捕れるか捕れないかの差もでてくる。それではマバタキをコントロールできないものだろうか。ところができるんだ。
マバタキのくせをやめるには友だちとか両親に手伝ってもらおう。目の前6~8インチ(約15~20センチ)離れたところでバットを前後に振ってもらうのさ。
バットが動くときマバタキしないよう神経を集中する。これを何回も何回も、毎日々々繰り返せば必ず効果は上がる。そしてマバタキしないで捕手がつとまるようになるのだ。
ポジションを転々としたということを見ると、さしものピート・ローズも、守備では「超一流」とまではいかないのだと推測される。しかし、外野手としてゴールド・グラブ賞を2度受賞したことの価値はかなり大きいのだと思う。
というのも、ナショナル・リーグの外野手部門では、1963年から1968年まで6年間にわたって、カート・フラッド、ロベルト・クレメンテ、ウィリー・メイズという名手がゴールド・グラブ賞を独占していたのだ。カート・フラッドは1963年から1969年まで7年間、ロベルト・クレメンテは1961年から1972年まで12年間にわたって連続受賞をした名手であるし、ピート・ローズが1969年に連続受賞を阻んだウィリー・メイズは、1957年から1968年まで12年間連続で受賞した選手である。1957年というのはゴールドグラブ賞創設の年であるだけでなく、大リーグ全体で9人だけが選ばれていたのである(1958年から、現在のようにナショナルリーグとアメリカンリーグのそれぞれから9人が選ばれるようになった)。つまりウィリー・メイズは、ゴールド・グラブ賞の顔であり、歴史であるのだ。
何が言いたいかというと。
ピート・ローズにとって1969年は.348の高打率で首位打者を獲得した年であるし、1970年はチームがリーグ優勝を果たした年であるが、これらの成績のおかげでゴールドグラブ賞を受賞できたと言うのは不当だということだ。ピート・ローズは守備でも偉大だったのだ。
さて、延々と続けてきた『ピート・ローズのハッスル野球教室』の紹介だが、いよいよ次回が最終回だ。その際、私の決意も発表するつもりだ。
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