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2007年7月21日 (土)

味方に馬連を買わせる高原

 緒戦から痛恨の引き分けをくらったオシムジャパンだったが、その後の2連勝で無事、トーナメント進出を果たした。優勝候補として臨むアジアカップの3連覇は、世間が考える以上に難しい。強敵オーストラリアとの準決勝を前に、予選リーグを振り返る。

 本来なら脇役でしかないはずのカタール相手に演じてしまった同点劇は、唐突なオシム・バッシングをもたらした。一見、事実を伝えている「オシム激怒」の見出しには、チームがいかに危機を迎えているかを、ことさらに強調する意図がある。そもそも、オシムが激怒して通訳が号泣したなんて話を、よくもまあ書けるものだと思う。
 まるで待ち構えていたように手のひらを返す態度は、さすがといわざるを得ない。しかも、めでたくグループリーグ1位通過を果たした今では、すでにオーストラリアへのリベンジが煽られている。このへんの変わり身の速さは、他の国のマスコミにはちょっと真似できない。中澤や川口の決意の発言が紙面に飛び交い、中村俊輔に至っては宿敵との対戦を歓迎しているそうだ。関係者の発言を引用して読者のイメージを操作しようとするやり口は、今や日本のマスコミの常套手段となってしまっている。
 しかし、だ。アジアカップとは、そもそも日本にとって極めて過酷な大会である。それは例えば、ブラジルにとってのW杯南米予選に近いかもしれない。80年代までは無敗突破を誇っていた王国も、今や実力差を埋めるための様々な障害に阻まれている。実際の力関係からすれば、アルゼンチンを除けば肩を並べる相手はいないわけだが、それでも彼らは毎回、ままならぬ苦労を強いられている。サッカーにおいて、実力差がはっきりしていることは、必ずしも有利には働かない。自分たちより強い相手に対して真正面からぶつかるバカはいないし、得てして結果は実力どおりにはならない。そしてそれこそが、サッカーというスポーツがこれほど愛される理由でもあるはずだ。

 技術のみを基準にするならば、日本は間違いなくアジアのトップだろう。少なくともスタメンの平均値でいえば、明らかにオーストラリア、韓国、サウジアラビアなどを上回っている。むろん体力や体格の面でいっても、トップクラスで入るのは間違いない。戦術面では、それこそ敵はいないだろう。金さえ払えば誰もが欧州サッカーをテレビで視聴できるし、実績ある外国人監督が当然のようにクラブチームを率いる。各国に特別視されるのは当然であり、だからこそ相手はひたむきに自陣に引きこもり、決定的なカウンターを狙ってくる。とくに中東勢は、いっそ潔いといえるほどにその姿勢を貫く。たとえ前線に素晴らしい選手を擁していても、その戦術は変わらない。アジアで優勝するためには、実力を発揮するだけでは足りないのだ。
 端的に言えば、中東勢のカウンター至上主義とは、「万馬券の買い漁り」である。つまり、彼らは競馬場に着いた瞬間、持てる限りの資金(実力)で万馬券を買い漁る。100円ずつ、すべてのレースで複数の万馬券を購入し、後はただひたすらに待つ。そこには、予想などというロマンティシズムは存在しない。1レースでも当たれば、日本という強敵から勝ち点をもぎ取れるのだ。そこには、一瞬の迷いすらない。試合中に、次のレースは何が来るか?(いかにして点を取るか)などと悩むことはない。
 これに対する日本のサッカーは、いかんせん「複勝転がし」に終始してきた。リスクは小さいがリターンも小さい馬券を買い、小さな成功を積み重ねていく。いずれは「ゴール」という大金が転がり込むかもしれないが、そこに至るまで的中し続けることはやはり難しい。決定的とはいえないショートパスを繰り返し、圧倒的にボールを支配しながらも、日本が得点できないゆえんである。つまり、中東勢相手に時として屈する敗北や引き分けは、日本の失敗というよりむしろ相手の賭けの成功を意味する。日本が悩みに悩んでいる横で、彼らはオッズだけで買った万馬券を当てるのだ。

 こうして考えてみると、今大会は恵まれている。多国籍軍だったカタールは、必ずしも中東的ではなかった。カウンターに依存するでもなく、かといってパスサッカーをめざしているとも思えない。しかも守備面では、明らかにゾーン・ディフェンスを消化しきれていなかった。中盤はプレッシングをためらい、それゆえにディフェンスラインは高原を捕まえ損ねた。セバスチャンという贅沢な助っ人FWは、カウンターに頼らずとも攻めることを可能にしていたわけだが、日本にとってくみしやすい相手だったといえる。
 相変わらずだったのはUAEのほうで、テクニックとスピードに優れたFWを置き、カウンターを虎視眈々とねらっていた。開始1分のピンチで失点を許していたら、結果は違うものになっていたかもしれない。しかし、カタール戦で煮え切らなかった日本の攻撃陣は序盤から積極性を見せる。2トップにしてポストを増やしたことで攻撃の幅が広がり、遠藤、中村憲剛が相次いでドリブル突破を図った。試合を決めたのは高原で、いつもなら沈滞ムードが漂う時間帯に相次いでゴール。相手に退場者が出てから失点したものの、彼ら相手にはそもそも1ゴールなら許容範囲という戦い方をすべきだろう。二度も中央をぶっちぎられた中村憲剛に関しては、今後に向けて不安も感じたが…。
 グループリーグ最終戦の相手ベトナムは、最も好感を覚える相手だった。ドリブル突破や無茶なスルーパスに固執せず、労を惜しまずよく走る。選手が入れ替わり立ち替わりサイドを駆け上がっていく姿は、3バック一本槍のJクラブに見習ってもらいたいものだった。事故のように先制されたが、あっという間に追いつき、以降は理想的に得点を重ねた。チームが落ち着きさえ取り戻せば、まともに戦ってくれる相手はやりやすい。ただし、同点ゴールは相手が違えばあり得なかっただろう。中村俊輔のクロスは、あまりに遅すぎた。敵陣の右サイド奥深くで大きく切り換えし、そのまま右脚でセンタリングすればいいものを、あえて利き脚の左で放り込んだ。あのタイミングが許されるのは、アジアならでは。ワタクシはブラウン管に罵倒を浴びせかけたのだが。

 とはいえ、目も当てられない引き分けから立ち直った姿には、頼もしさも感じている。チームをけん引しているのは、やはり高原だろう。常にマークを引き剥がしている彼は、敵DF陣にとって危険な存在であり続けている。カタール戦での拮抗ムードを振り払い、UAEが買い占めていた万馬券を紙くずに変えた。その姿は、自らシュートすることに固執し、無茶なドリブル突破を繰り返したジーコ時代とは、明らかに異なっている。結果によっては、後輩であるジュビロ・前田の代表漏れが持ち出されていたに違いないのだ。
 次戦のオーストラリア戦こそは、その高原の試金石となるだろう。目標はあくまで、2010年だ。巨漢DF相手にどこまでできるかで、オシムの落としどころも変わらざるを得ない。マスコミは好きなことを言うだろうが、もはや問題はオーストラリア相手にどこまでやれるかに尽きる。
 以前にも書いたことだが、日本代表に対する決定力不足という批判は、正確ではない。先ほども述べたが、彼らは小さな勝利を積み上げ、その上でようやく訪れた決定機を逸しているに過ぎない。最後の最後(=シュート)で失敗したからといって、そのことのみを問題にしても、本質的な問題は解決しない。むしろそこまでたどり着く過程を、いかに合理的かつ容易にできるかが問われるべきなのである。オシムの目標はそこにあり、我々は明日、その答えの一端を見られるはずである。
 高原は、これまで思い切れなかった味方に、複勝ではなく馬連を買う勇気を与えているのだ。

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  • 荒木又三郎
    高スポ創刊者にして主筆。ACミランを愛する後天性フランス人。高スポ編集雑記に本音をぶちまける。
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