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2009年4月12日 (日)

日本に求められる10番とは――松井・長谷部・憲剛を生かせない岡ちゃんの限界

 満を持して臨んだはずのホーム2連戦は、岡田ジャパンの限界を露呈した。引き分け上等のオーストラリアを完全に攻めあぐね、1-0での勝ち切りを狙ってきたバーレーンにはFKからの1点でかろうじて勝利を収める始末。それは、「本大会でベスト4」という目標を掲げるチームとはとても思えない内容であり、攻撃を率いる10番の不在を印象付けた。中村俊輔と遠藤の共存に固執する指揮官に対し、今一度疑問を呈したい。

 W杯アジア最終予選。ホームでの2連戦は、ライバルであるオーストラリアとスコアレスドロー、バーレーンとはFKからのゴールを守りきって逃げ切った。2試合で1ゴールという結果もそうだが、内容も評価できるものではなかったろう。ボール支配率に比例する攻撃をみせられたとはいい難いし、相手の消極さからすれば無失点という結果もさほど褒められるものではなかった。オーストラリアは「0-0で御の字」という姿勢だったし、バーレーンにしても1-0での勝利をねらって「まずは失点しないこと」を優先する戦いに徹していた。つまり、日本は試合の主導権を持たされながらも、それに見合うプレーを披露できなかったことになる。

 この2試合で明らかになったのは、岡田監督のファーストチョイスが中村俊輔と遠藤の共存であるという点だろう。フランスから呼び寄せた松井はスパイスの一種でしかなく、欠かせないベースではない。持ち味(=オーバーラップ)を殺してまで長谷部に守備の負担を強いて、守備に不安を残す中村憲剛にはベンチを暖めさせる。そして玉田、田中達也、大久保といったスピードに優れたFWを並べて、俊輔と遠藤の展開力を生かそうとする。

 しかし、中村俊輔と遠藤を攻撃の軸に据えるのならば、「敵陣深くで、彼らがいかにフリーの状態でボールを得られるか」を最大の目的にすべきだろう。ところが現在の日本をみる限り、岡田監督はそれを目的ではなく前提に考えている気がしてならない。つまり、彼ら二人がボールを持って前を向いたときに、他の選手がどうすべきかを第一義に考えているように思える。そもそも、敵陣でボールを持った二人がそんなに簡単に前を向けるのか、という本質的な問題を無視して。

 俊輔と遠藤は、ミドルシュートとパス能力にこそ長けているが、複数の敵をかわしていけるような突破力は持っていない。1対1の状態で敵に詰め寄られれば、背中を向けてパスをさばくのが関の山だ。そうなれば自らの武器を生かすことはできないし、チームに決定的なチャンスをもたらすには到底、至らない。たとえFWや両サイドバックが勢い込んで動き出しても、相手にカウンターの好機を与えるだけだ。実際、逆襲を受けたときに「第一の壁」となる役目が足枷になり、長谷部は積極的に飛び出す自らの持ち味をみすみす潰してしまっている。

 結局のところ、俊輔や遠藤は「時代遅れの10番」に過ぎない。現在のサッカーに求められるスピードには、頭はともかく体がついていけないのだ。それでいてジダンやリケルメのような強さとテクニックは持ち合わせず、一人ではその優れたパス能力を発揮することは難しい。そういってよければ彼らはピルロのような存在であり、周囲にタフな味方を必要とする。ガットゥーゾのようなファイターの存在はもちろん、セードルフのキープ力があって初めて、ピルロの持ち味が生きてくる。そしてもちろん、ミランの攻撃はカカという飛び道具がメインなのであり、ピルロの展開力にすべてを依存するものでは決してない。
 確かに、遠藤に比べれば俊輔はダイナミックだが、その機動力はベッカムに遠く及ばない。攻守にわたって右サイドの広いスペースをカバーするベッカムに比べ、俊輔は往々にして自身のゾーンを放棄し、内田に守備の負担を大きく強いる。だいたい、そのベッカムが敵陣を縦横無尽に切り裂くなどあり得ないわけで、日本代表での俊輔にそれ以上の働きを期待するのには無理がある。
 まさか岡田監督は、俊輔や遠藤の運動量がピルロやベッカムに勝るとでも思っているのだろうか。

 岡田監督が、彼ら二人を攻撃の主軸に考えるならば、その脆さをカバーすることを考えていくべきなのだ。攻撃が手詰まりになり、苦し紛れにボールを渡されたところで、彼らにできることは何もない。敵の守備が整っている状況で強引にミドルシュートを打ちにいける力はないし、そうなれば優れたパス能力だって宝の持ち腐れとなってしまう。だから日本の攻撃は、ボールを支配しながら敵陣で行き詰まり、ようやくシュートに漕ぎ着けたところでゴールの枠を外れていく……。
 こうした隘路に陥らないためには、俊輔や遠藤にもマークを外す動きが求められるのだ。敵の守備が整う前にフリーになり、味方がそこへボールを預けていければ、展開は遥かにスムーズになる。逆襲を恐れず前線へ多くの選手を送り込むことができるし、それによってフリーになる味方が生まれ、チャンスは広がっていく。

 一方、玉田と田中達也を起用するFWも、俊輔、遠藤の共存にふさわしいとは言い難い。持ち味のスピードを生かそうとする彼らは、むやみやたらにサイドへと開き、平然とゴール前を空けてしまう。そもそも、苦し紛れにクロスを上げる状況が散見されるなかで、気がつけば中央に人がいないのは致命的だ。何より、スピードのある選手がいればスピーディーな攻撃ができるわけではないことは踏まえなければならない。長身で頑健で、しかもできれば優れた足技を持つポストプレイヤーが必要なことは、インテルやリバプールをみれば明らかだ。前線にポイントなくして、スピーディなカウンターを仕掛けることはできない。
 もちろん、そんな選手は日本にはいない。しかし、ということは岡田監督の選んでいる選手と戦術が、間違っているともいえまいか。俊輔や遠藤を重用するには器用で頑健なポストプレイヤーが必要だし、彼ら自身にも古き良きゲームメーカー然として振る舞うことは許されない。オシムがそうしたように、二人を走らせなければ攻撃の糸口はみつからない。

 結局、日本が必要とする10番は、クラシカルなゲームメーカーではないのだ。ボールを持てば無条件に前が向けるなどという悠長な環境が得られない以上、機動性に劣るパサーに攻撃のタクトを委ねるのは疑問だ。むろん、その選手が自らの実力によってその環境を生み出せるだけのテクニックやフィジカルを持っているなら、それに越したことはないのだが、俊輔や遠藤がそうでないのは明らかだろう。これまでの結果が、それを示している。
 率直にいって、岡田監督の戦術に求められる10番は、ジダンでもリケルメでもピルロでもない。彼らは、いずれも優れた味方の存在によってその実力を発揮する。二流、三流のチームで現在の名声を勝ち得たかといえば、甚だ疑問だ。
 そう考えれば、日本に求められる10番は、ゲームメーカーではないだろう。フィジカルに長け、得点力もあり、それでいてクラシカルな10番像としてのプレーに固執することもない。こうした人材であれば、スピーディな逆襲を演出することができるだろう。それはたぶん、トッティあるいはジェラードやランパードのような選手に他ならない。とくに、ローマで「ゼロトップ」を実現する王子は、ポスト役とストライカーをも兼ねる究極の存在だ。労を惜しまずに走り回る味方を生かし、また生かされる姿には、現在の日本に最もふさわしい人材との印象を受ける。
 もっとも、トッティになれる人材が日本にいるはずもない。タイプとしては大久保が最も近いと思うのだが、状況判断力の差は著しいし、コンタクトプレーにおける強さは数段劣る。そしてジェラードやランパードのような得点力あるセンターハーフも日本にはいない。長谷部や憲剛では、荷が重いだろう。
 しかし、それでも自らのプレーに固執する俊輔や遠藤よりは、彼らに期待するほうが戦術的には可能性があるのではないか。松井という「欧州で成功したドリブラー」を生かせず、憲剛や長谷部の持ち味を封印してまで、俊輔や遠藤を主軸に据えなければならない必然性がわからない。

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高スポ執筆者

  • 荒木又三郎
    高スポ創刊者にして主筆。ACミランを愛する後天性フランス人。高スポ編集雑記に本音をぶちまける。
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